反逆者の末裔たちは、なぜ尊敬される人生を歩めたのかー会津人・柴五郎

石井孝明
ジャーナリスト

青森県での過去との偶然の出会い

原子力施設の集まる青森県下北半島のエネルギー施設を3月末に取材する機会があった。別の機会に報告する。その取材旅行で、会津藩の人々が作った斗南藩の士族が集住した斗南ケ丘(青森県むつ市)にある、むつグランドホテルに泊まった。その宿泊先の選定は偶然だった。それをきっかけに、静かなむつの夜、そして帰り道の飛行機で、その斗南藩士だった「ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書」(中公新書)を読んだ。柴は後述するように有名な陸軍軍人になった。

斗南藩とは戊辰戦争で敗れた会津藩が転封されて、下北半島に移動した藩だ。明治3年(1871年)から廃藩置県の翌明治4年までしか存在しなかった。4000人の会津藩士が移り住んだ。

私の母方の5代前は、会津藩の足軽だったらしい。その出身の家は新潟の天領にいた幕府の御家人だったが、新潟に飛び領のある会津藩となぜか縁ができて、その藩士の家の養子にいった。会津戦争(明治元年、1968年)で、少年藩士で構成され自刃した白虎隊などの悲劇が知られる。しかし、同隊は上級藩士の子弟だった。下級藩士で身分の低かった私のご先祖はそれに参加しなかったようだ。ただし養父が戦死し、実家にも帰れず、路頭に迷ったらしい。斗南藩には行かず、東京で和裁屋の丁稚になって、その後に和裁屋になったという。

荒涼とした下北半島は、風が強く、風力発電が盛んだ。(筆者撮影)

有名な家系でないし、母はその3代目の3女で、150年前の戊辰戦争のことは、よくわからない。ただし、ご先祖様は、坂本龍馬が登場するような明るい英雄物語ではない、悲惨な明治維新を経験したようだ。ご先祖様が一歩間違って死ねば、また斗南藩に行けば、私はこの世の中にいないかもしれないと思った。そして、この偶然の結果のありがたさをしみじみ感じた。だからこの偶然の斗南ケ丘との邂逅が心に残った。

ちなみに、私のご先祖は足軽組頭格の小林という家の者だそうで、会津藩に詳しい人で消息を知っていたら一報いただけると幸いである。

飢えを前に「恥をそそぐまで生きよ」

会津は幕末、京都守護職になり28万石のところ65万石まで加増される大大名になっていた。ところが約3000人が戊辰戦争で戦死。斗南藩に行ったのは4000人ほどで、私の家のような8000人はいろいろな人生をたどったようだ。同藩の石高は3万石、実質7000石で、藩士はわずかな支援のほかは農業・漁業を行った。

現地をみると、春の訪れとはいえ、下北半島は寒かった。農業で生きるのは苦しそうな場所と思った。今のような品種改良された冷害に強いコメもなく、関東や東北と違って森が痩せていた。

柴五郎の前出の手記を読むと、下北の冬は厳しかった。会津藩士たちは農業をやったこともないので揃って失敗し、飢えた。しかし武家であるため、盗みなどを働く者はいなかったという。ある冬、野犬を退治し、その肉を分けてもらった。それを1ヶ月ほど、父と子と2人で食べ続けた。11歳の柴は吐きそうになったが、敗戦以来、抜け殻のようになった父が怒ってこう言ったという。「ここは戦場ぞ。会津の恥をそそぐまで生きよ」。それを聞き、仕方なく食べ続けたという。

会津出身なのに陸軍大将に昇進、敗戦で自決

柴五郎の人生は悲惨で劇的だ。柴家は上級武士の家に生まれたが、9歳の時の会津戦争で城下に敵軍が迫った時に、祖母、母、姉妹4人が自害し、家に火をかけている。男子として血筋を残すためとして、五郎は親戚宅に預けられ、敗戦後、家族の骨を拾う。長兄は戦死したが2人の兄と父は生き残った。

柴は戦時捕虜となり、連行された東京から斗南藩に移住した。その後、青森県庁の給仕、新政府役人の使用人を経て、15歳で陸軍幼年学校に合格し、入学した。勉強は仕事をしても、やめなかった。その後、陸軍士官学校に進む。会津の出身者だが薩長藩閥の陸軍で1923年に最高位の大将となった。

義和団事件での活躍、世界で称賛

英語、中国語、フランス語に堪能で中国通として知られた。実戦経験も多く、西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征し、武功最高位の金鵄勲章を受章している。米西戦争(1899年)では観戦武官として、米軍と共にキューバ侵攻に参加した。

中でも1900年の義和団事件での活躍が知られる。中国の民間信仰の義和団が、西洋・日本の居留民や宣教師を侵略者として襲い、清朝政府もそれに乗じて列強に宣戦を布告した。北京の居留民地区の約500人の混成軍部隊の事実上の指揮官になった。アメリカ映画「北京の55日」でチャールトン・ヘストンが演じた米国海兵隊ではない。そこを2ヶ月守り通し、3000人の諸国民、そして避難した中国人キリスト教徒を守った。柴は常に冷静沈着で、最前線に立ったという。

義和団事件で出動した8カ国の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本。ウィキペディアより

義和団事件では、侵攻してきたロシア軍などの連合軍は派手に略奪、虐殺をした。柴は日本軍を指揮し、占領地での規律と統制を守り抜き、中国人や他国の西欧諸国の人々から、その戦後処置でも尊敬を受けた。その態度は、当時、中国報道で英ロンドン・タイムスの著名記者だった英国のジョージ・モリソンや、駐中国公使、のちの駐日公使のクロード・マクドナルドの信頼を得た。

モリソンの報道と、マクドナルドの柴への好感が、1902年の日英同盟のきっかけになったとされる。

ジョージ・アーネスト・モリソン(1862−1920)ロンドン・タイムス記者、ジャーナリスト。東京の東洋文庫は彼の集めた資料を母体にしている。Wikipediaより

しかし柴は、その後の陸軍を中心にした中国の侵略、米国との対立には批判的だった。太平洋戦争の開戦の際には「この戦争は負けだ」「中国人を敵に回してはいけない」と、悲しんだという。昭和20年の敗戦後の9月に身辺整理の後で自決を図ったが、知人に助けられた。しかしその年の暮れにその傷が元で亡くなる。87歳だった。明治日本の草創から、一等国の栄光、そして傲慢と増長による没落を全て見た。

柴は自慢することの少ない人で、大活躍した義和団事件でも、功を誇らなかったという。前出の遺書は80歳を超えて自らの覚書のように残したものだ。読むと、恨みを淡々と書いてあり不快さを感じなかった。その文章から見ても人としての品位は高そうだった。また使用人や、外交官でもある駐在武官としての経験から、物静かで、商人のような物腰の柔らかさだったという。

賊軍の人たちは、なぜ素晴らしい人生を歩めたのか

2023年、私が一人たたずんだ斗南ケ丘は夜は暗く、静かだった。3月の風は寒かった。そして当時の会津藩士の怒りと苦難を思った。会津藩士たちは農業で失敗したが、優れた人々を輩出した。今も青森の教育界は、会津藩士の末裔の人が多いという。学ぶことを忘れなかったのだろう。「斗南」とは、北斗星の南なら、人の社会は続くという意味で名付けられたそうだ。

会津の民芸品、赤べこがホテルにあった。赤べこは赤牛のことで、病気から持ち主を守る言い伝えがある)

過酷な運命に翻弄されながら、それに立ち向かう精神力、気迫、それのもたらす努力、勉強と集中が、柴や会津人の人生を切りひらいたのだと思う。

考えてみると日本の新旧のお札になる、渋沢栄一、福沢諭吉、新渡戸稲造、津田梅子、野口英世、夏目漱石、樋口一葉は全員が、賊軍とされた地域の出だ。そして、渋沢(のち武士)と野口以外は士族の出だ。こうした人たちは、過酷な運命に直面したからこそ、それを乗り越える挑戦をした。柴の憎んだ薩長藩閥政府は良い面もあった。日本のことを考え、藩閥以外の人が活躍する四民平等の世を作った。

現代の日本では個人の生き方を制約する不条理はほぼ無くなっている。貧困、抑圧、差別などは皆無ではないにしても、柴五郎らの生きた時代から比べると大したことはない。「差別だ」「不条理だ」と喚いて権利を主張する声は世の中に溢れているが、その内実を調べてみると、小さな問題ばかりだ。

自分で自由に生きられる。人生の選択肢はかなり多い。しかし、その自由の割に、柴のような人物が少ないように思えるのは何故だろう。自分もその物足りない人物の一人ということを悲しく思う。何かを成し遂げたいという意思のない人間には、自由はただの怠惰と苦痛しかもたらさないのかもしれない。

柴五郎(1858−1945)中佐時代、1900年の義和団事件の頃。国立国会図書館より

石井孝明
経済記者 &ENERGY運営
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