福島事故、東電は賠償を無限に支払い続けるべきか

石井孝明
ジャーナリスト

10兆円の賠償を支払い続ける東電

東京電力の福島第一原発事故の事故処理で、「被災者への賠償問題は今、どうなっているのか」という質問に即答できる人は少ないだろう。原発事故から歳月が流れ、多くの人が忘れてしまっている。私も同じだ。「東京電力の変節 最高裁・司法エリートの癒着と原発被災者攻撃」(旬報社、後藤秀典・著)という本を読んだ。その本を批判的にコメントしながら、このこじれた賠償問題の今を紹介し、今後を考えたい。

(写真1)「東京電力の変節」

福島原発事故では、発生した個人と企業・団体の精神、財物価値、経済活動の損害に、東京電力の責任で賠償が支払われている。それは2023年10月末までに10兆9188億円と巨額だ。個人には延べで約104万4000件、自主避難者などの個人には同148万3000件、法人・個人事業主には同48万件になった。(東電ホームページ「賠償金のお支払い状況」)

賠償金の支払いの仕組みは、まず国が支出し、将来に東電が返済する形だ。経産省の下に原子力損害賠償・廃炉等支援機構があり、そこから賠償金や廃炉の費用を国が東電に貸し付けている。一時的という名目で、同機構は国債で資金を調達している。東電は収入、つまり主に管内の電力利用者の支払う電力料金によって、その返済金をまかなうしかない。東電本体は国の出資を受け入れて事実上の国有になっており、国が見直さない限り、この仕組みから抜け出られない状況だ。

「東電宝くじ」、手厚い補償で被災者の生活は安定したが

(写真2)福島原発の処理水で生育する魚たち。放射能の影響はない。福島問題では、不必要な恐怖が多すぎる。(東京電力提供)

賠償の金額は人によって違うが、2014年に私が話を聞いた家族のことを記してみよう。福島県の原発近くの富岡町から、原発事故をきっかけにいわき市に事故直後に転居した5人家族だ。その当時、毎月一人当たり10万円、毎月50万円をもらえた。母が細々とやっていた先祖伝来の田畑での農業の補償、そして勤めていた工場の休業補償、避難の家の家賃、富岡町の家の修理代ももらえていた。総額は言わなかったが、数千万円の臨時収入があったようだ。

「もらいすぎと思うが、国と東電がくれるというので、もらっている。誰も露骨に言わないが、『東電宝くじ』なんて陰口の言葉もいわき市にあり、避難者は周りのいわき市の人から妬まれている。避難者はやることがなくてお金があるので、昼間からファミレスに集まっておしゃべりをしたり、パチンコをしたりしている。福島は車がないと生活できないが、みんないい新車を買っている。いいこととは思えないが、生活苦がないので、暴動など過激な社会混乱も起きなかったのだろう」と話していた。

このように、かなり手厚い補償が、この事故の被災者に出た。今では福島の浜通り地区で、避難指示が大半の場所で解除され、補償額の支払いはゆっくりと減っている。しかし訴訟によって上乗せの賠償支払いを求める動きがある。それによって利益を得る弁護士、政治活動家が後押しする。

すべてが「東電のせい」ではない

この東電の賠償金、そして上乗せの賠償を訴訟で求める動きについては、立場によって色々な考えがあるだろう。ただし闇雲に支出するのではなく、その必要性を精査する段階になっていると、私は思う。

賠償とは、損害を補填するために行われるものだ。根本のところで、この東電の賠償問題はおかしい。原発事故直後から、この事故で漏洩した放射性物質によって健康被害は起こらないと予想され、2023年時点で実際に起こったとは確認されていない。人々の恐怖や社会混乱という問題は、被災者の健康被害の可能性によって発生した。しかし健康被害がなかったのに、「損害があった」として賠償が払われるのは、おかしな話だ。

この巨額の補償は必要だったのか。事故の後の社会混乱によって、多くの人が損害を受けた。それは恐怖によって増幅し、デマなどで大きくなった風評によってもたらされたものだ。早めに避難を解除しなかった政策の失敗もある。 放射能の影響がわかった2011年の夏の段階で帰還を促し、日常生活に戻るように国がうながせば、そしてデマを流す人が少なければ、社会の損害はかなり少なかったはずだ。東電の責任だけによるものではない。

また全てを東電の責任にするのは、正しいことなのか。福島事故前の安全審査や、その後の政策による混乱は国によるものではなかったのか。また東電は「倒産」という選択肢もあった。それなのに、同社を延命させたのは国の判断だ。

そして、ここまで賠償金が膨らみ、国民負担が広がる前に、国が責任を持って、早い段階で賠償を最小限にするように線引きをすれば良かった。それなのに何もしなかった。

「変節」批判は正しいのか

この本はその賠償について、賠償をめぐる東電の裁判戦略の変化、そしてその背後にある司法界の癒着という二つの変節を告発することを意図していると、前書きにある。

著者によると、賠償をめぐる裁判で被告である東電側の弁護士が、原告側の主張を受け入れずに積極的に反論するようになっているという。

また裁判所、行政、企業が癒着を大手法律事務所を軸に深めているという。東電寄りの判決を下した最高裁の裁判官が、退官後に大手法律事務所に属した。またこうした法律事務所が、賠償問題に関わる政府の委員会に人を出しているという。それが、上乗せ賠償をめぐる裁判で、国の責任を認めることや、増額に慎重な判決を生んでいる可能性があると、著者はいう。

前者の東電の対応の変化は当然のことと私は思う。私がこれまで説明した、10兆円以上の東電の賠償の巨額さ、異常さを、この本は全く指摘していない。これは東電を攻撃する人、日本のメディアもそうだ。この賠償を減らさないと、東電の経営も成り立たず、消費者が負担を受ける一方だ。

国が賠償の線引きをする行為から逃げている以上、東電がその裁判で支払いを減らす抵抗するのは仕方がないだろう。

また後者の司法界の癒着は、部外者からするとおかしさを感じることは同意する。その批判の視点を、部外者である私たち一般国民は当然持つべきだ。しかしそれは東電の裁判への対策のためだけではなく、他の企業や利権がらみでも、法曹の間の協力関係は起きている。

例えば一連の東電の賠償をめぐる裁判にも、弁護士側がネットワークを作り、東電を攻めている構図がある。そして、一部の反原発勢力、政治勢力、メディアに応援を受けている。この種の裁判は、原告側の弁護士の利益になる。普通の裁判では裁判費用の他に、勝った場合には、賠償の2―3割を弁護士が得られる。これも一種の不透明な「癒着」であろうが、著者はその問題に触れていない。

もちろん、東電の賠償をめぐる裁判では、実際に原告が困ったことがあったり、弁護士が正義感から参加したりする面があるかもしれない。しかし、どうもそうした「きれいごと」だけではなさそうだ。

賠償問題を見直すとき

東電の賠償裁判では、賠償を線引きし、司法が介入するような状況を作り出さなければよかったのだ。初動を間違え、すべてを東電のせいにしたことで、今になって多くの問題が顕在化している。

この本は、岩波の月刊誌「世界」の連載を本にしたが、あまり話題になっていないようだ。東電の原発事故をめぐる「東電悪い」の単純な視点に、多くの人が共感せず、またこの問題に関心がないのだろう。関心を持つ少数の人は、この解決策、賠償問題のおかしさを認識し始めているのかもしれない。

このまま賠償を減らし、東電の負担を減らす議論を始めるべきではないのか。著者の意図とは逆に、そんなことを読んで考える本だった。賠償を無限に東電が払い続ける状況を作ってはいけない。それは日本全体、そして電力利用者全員の損害になってしまう。

石井孝明
経済記者 with ENERGY運営
ツイッター:@ishiitakaaki
メール:ishii.takaaki1@gmail.com

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