行動経済学を使う政策とビジネスの一工夫、ナッジ活用の勧め

石井孝明
ジャーナリスト
(写真1)行動経済学とその応用が、「ガラパゴス」日本以外での、米英の経済学、経済論壇でブームだ

人は合理的に動かない

知人に、落選した政治家がいる。ある選挙何度かに当選したが落選し今は浪人中だ。大変優秀な人なのに落選状態では、政治活動は選挙以外にできない。しかも所属する政党の支持が低下中で、次の選挙で当選できるかわからない状況だ。

それでも、その人は、毎日、貯金ゼロのまま選挙活動をしている。「将来のことを考えるより今日の選挙活動」。「かつての当選経験を活かそうとこだわる」。こうした行動をしているが、この人自身の人生にとって無駄になっているように思う。また日本社会にとっても、優れた人材の使い方として間違っているように私は思うのだ。

ちなみに、最近流行の行動経済学で分析すると、「バイアス(思い込み)」で、この人の言葉は説明できる。前述の1つ目の行動は、将来的な利益(この場合は政治家としての大成)よりも、目先の短期的利益(次の選挙に当選する)を優先する「現在バイアス」。2点目は支払い済みで返ってこないコスト(サンクコスト)にこだわる「サンクコストバイアス」というものだ。こうした行動経済学で、人の行動や政策を分析する動きが、世界で流行っている。

行動経済学とナッジ

行動経済学とは経済学のモデルに、人間の心理を組み込んで分析していこうという考えだ。モデルとは、経済学の理論上の仮想の世界だ。経済学のモデルは、需要と供給の一致するところで、価格と生産量が決まるというのが基本だ。合理的に行動する個人、企業が、その行動によって、その仮定は成り立つ。ところが、人は合理的には動かないし、政策も合理的に決まらない。それを考えながら、モデル分析をしていこうというものだ。

2017年に、シカゴ大学の行動経済学者リチャード・セイラー教授が行動経済学でノーベル経済学賞を受賞して以降、米英の経済学、また経済論壇の世界ではブームになっている。現実社会や政策づくりと経済学が離れ、また経済学や経済問題で、米英西欧の流行トレンドに敏感に反応しない「ガラパゴス」の日本では、あまり知られていない。

(注・以上は「行動経済学の使い方」(大竹文雄、岩波新書、2019年)という本を参考にしている)

これは私が大学で経済学を学んだ、1990年代初頭には言葉だけが出てきた。その後に、進化、応用が進んだ。

セイラー氏の提唱した考えで「ナッジ」(nudge)の活用が進んでいる。ナッジとは、「肘でそっとつつく」転じて「そっと後押しをする」という意味だ。行動科学の知見を用いながら、経済的インセンティブをほとんど変えずに人々の行動を変える仕組みを指す。

ところが最近は、行動経済学は、経済学の世界から少し離れつつあるようだ。ナッジの方に関心が向きすぎ、人間の行動操作や心理学の応用とごちゃごちゃになりかけている面があると、私は思う。ただ、それはそれで面白い現象を生んでいる。政策への応用が米英カナダなどで広がっているのだ。

ナッジの政策応用例−防災、コロナ、違法駐車防止

日本でも、少しずつ、「ナッジ」の活用が始まっている。特に力を入れているのが中央官庁では環境省で、BESTと呼ぶ日本版ナッジ・ユニット事務局を運営している。BESTとは、(科学的行動チーム)の意味という。(Behavioral Sciences Team)環境省は、お金をかけずに効果のある温暖化、環境対策にナッジを使おうとしている。

2022年9月には、特定非営利活動法人Policy Garage、大阪大学社会経済研究所、行動経済学会の三者が連携して「自治体ナッジシェア」というウェブサイトを立ち上げた。ナッジ作成のための国際的なツールキットや、実際に自治体などで用いられたナッジについて紹介されている。

ここで、実際に政策現場で利用されているナッジを、上記の「自治体ナッジウェア」と環境省のサイトから、3つ紹介したい。

▼防災避難の促進:広島県は「あなたが避難することが、みんなの命を救うことにつながります」というメッセージをポスターに入れている。

これまで豪雨などの災害時にいち早く避難した人のほとんどは、その理由を「まわりの人が避難していたから避難した」と述べていた。この背景には、すなわち他人の利得から効用を得る(幸福感を得る)「利他性」と、周囲の人が取る行動を「社会規範」と捉えそれに従うという、行動科学からの理由が考えられる。これを利用した。

(写真2)広島県の避難推奨ポスター。「あなたの非難が、みんなの命を救う」という利他心を刺激する言葉を使う

新型コロナウイルスの感染拡大防止策では、誰もが感染拡大の始まった2019年末はあまり目立たなかった消毒液、手洗いの表示がどんどん派手になっていったことを覚えているだろう。

▼新型コロナウイルス対策のための手指消毒率の向上:京都府宇治市の例だ。市役所訪問者の玄関に置いた手指消毒液の利用割合は当初10%程度だった。玄関の目立つところに、人の誘導の矢印を置き、声がけをしたところ100%になったという。全国民が警戒した状況にあったとはいえ、政策での誘導対象を目立たせなければ、それを目指して人は動かない。

(写真3)京都府宇治市のコロナ対策での誘導の工夫。見える化で初日の10%からほぼ全員が、消毒を行うようになった。(環境省資料)

▼タクシー駐車マナーの改善:京都市内の駅近くの交差点付近では、タクシーの違法な客待ち駐停車が多かった。京都市とNTTデータ経営研究所は、ナッジを利用した看板を設置した。運転手には「見られている」を意識させた。さらにその利用者には、違法駐車タクシーに乗らせないようにした。その結果、看板設置前に比べて、設置後では、1日あたりの違法停車時間の合計が約9割減少した。

(写真4)京都市のタクシー違法駐車の改善キャンペーン。ポスターの工夫で違法客待ちが9割減った。

手間とお金のかからない、今すぐできる政策に注目しよう

こうした工夫は、対策のコストが低い。さらに「この行動をしたらこの結果が生まれた」ということが分かりやすいので、EBPM(証拠に基づく政策立案)との相性もよい。米英カナダの公共政策に、こうした工夫はこれまでもあったが、「ナッジ」の言葉と共にまた広がる気配を見せているという。

日本では社会問題を解決する政策をめぐって、「金をばら撒け」「規制を強めろ」などと偉そうな右と左の評論家やメディアががなりたてる。しかし、大がかりに法律や制度を変えても、金も時間もかかって、効果が出ない時もある。

現実はそんな簡単なものではない。冒頭に紹介した優秀な元政治家は、頭はいいのに、バイアスに囚われ続けている。人間の行動や感情は、予測不可能だ。行動経済学も、ナッジも効かない例が、私の予想よりも多いかもしれない。

ただし大変革による問題解決を目指して、何もしない、できない状況が日本では多すぎる。それよりも行動経済学を活用した手軽で効果のある「世直し」が政策やビジネスで広がって少しでも問題を改善した方がいい。

石井孝明

経済記者 with ENERGY運営
ツイッター:@ishiitakaaki
メール:ishii.takaaki1@gmail.com

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