自殺を語る場合には慎重に-次の犠牲者が救える
目次
焼身自殺と報道
1963年6月の南ベトナムの首都サイゴンの大通りでの光景だ。当時のゴ・ジン・ジェム大統領は、反政府運動の巣窟になっているとして、仏教徒を弾圧した。社会混乱が起きて数百人の人が殺害された。73歳の仏教界の指導者ティク・クアン・ドック師が抗議のために焼身自殺を行った。
当時、ニューヨーク・タイムスのサイゴン特派員だったデイビッド・ハルバースタムは、現場を目撃し、苦悩を込めてこの情景を伝えた。彼はのちに米国の代表的なジャーナリストになる。私が個人的に目標とする人物だ。この燃える僧侶の写真は米国の報道に送られる最高の賞であるピューリッツァー賞を受賞したが、ここでは掲載しない。ハルバースタムの描写だ。
「後にその様子を見る機会もあったが一度で十分だ。炎が体から舞い上がり、体はどんどん小さくしぼんでいき、頭は黒く焦げていった。あたりは皮膚が焼ける臭いがたち込めた。人間というのは驚くほど早く燃えてゆく。 私の後ろからは集まったベトナム人のすすり泣きが聞こえた。泣くにはあまりにショックで、書きとめたり、疑問を投げかけるにはあまりに混乱し、うろたえて、考えることすらできなくなった。燃えていく彼は微動だにせず、声も発さず、彼の落ち着きはらった様子は周りの泣き喚く人々とのコントラストを醸し出していた」
大統領の弟で、秘密警察を仕切っていたゴ・ディン・ヌー夫人のチャン・レ・スアンが焼身自殺事件の直後、米国テレビのインタビューに答えた。ゴ大統領が独身だったため、彼女がファースト・レディーのように扱われていた。
彼女は放言した。「単なる人間バーベキューよ」「西欧化に抗議しているのにガソリンを使うなんて矛盾している」。そして南ベトナム政府批判を続けるハルバースタムを「食べてやりたいぐらい憎たらしい」と暴言をはいた。
発言はベトナム国内と米国で大騒ぎになり、同国政府は民衆と米国政府の支持をさらに失った。1963年11月に軍事クーデターが起き、ゴ兄弟は殺害され、マダム・ヌーは亡命した。
なんでなぜこの話を紹介したか。自殺という行為の影響の大きさを示すため、それを利用する人の醜さを示すためだ。この論考では、自殺と情報について考えたい。
人の命の情報をいいかげんな気持ちで扱うな
7月12日、りゅうちぇるさんというタレントが28歳で亡くなった。自殺とされる。年若く残念で痛ましい。ご冥福を祈りたい。
それよりも私が問題にしたいのは、この情報の拡散の仕方だ。ツイッターやフェイスブックなどのSNSに、死の理由に関する憶測が流れていた。情報が不確実なのに、「ネットのせい」などと、論評する政治家、自称専門家やメディアがあった。人の命をネタにして、自分の存在感を増したり、ツイッターやフェイスブックの閲覧数を増やしたりしたいのだろうか。恥ずかしい行為だろう。
これを見て、社会の一部に死を伝えることの意味を真剣に考えない人がいることを改めて知った。死というものが日常から遠くなり、他人事のように扱われ、人間の宿命でやがて自分に訪れる厳粛なものであることを忘れているのであろう。
ただし騒いだ人、自殺情報を楽しんだ人も、悪い人ではなかろう。ちょっと立ち止まって、マダム・ヌーの醜さを思い出し、気づいてほしい。
20年ほど前までは、こういう暗い情報を扱うのは、メディアの仕事だった。個人的な意見だが、一般の人は必要なければこうした情報は触れない方がいいと、筆者は思う。伝える仕事は専門のメディアに任せてまかせておいた方がいい。なぜならば、こうした情報を扱うことで自分と他人の心を汚してしまう可能性があるからだ。
筆者は新聞記者として、何度も人の死を伝えた。真面目に考えると、大変気の滅入る仕事だ。相手のことを取材したり、知人だったりした場合はなおさらだ。
記者は普通の市民生活では経験することのないことにぶつかることが多くある。事件を担当すれば、殺人、強盗などの情報に接し続け、それに不感症になる。筆者はたいして優秀でなかったが事件取材をして、人の死に不感症になった自分の変化に恐ろしさを感じたことがある。犯罪被害者やその親族、場合によっては遺族に「今の気持ちは」などと、記事のために聞いた。後から振り返り、自分の行為は仕事とはいえ「鬼畜の所行」だと、ぞっとした。
インターネットとモバイル情報端末で「誰でもメディア」になったのはとても良い事である。報道という職業に関して、垣根がなくなってしまった。しかし普通の社会生活を送る私たちが、既存のメディアに内在するセンセーショナリズムを真似したり、非日常を追求したりする必要はない。
また情報は、関係する人々の思いが絡み付いた重いものだ。人の死という情報を扱うことは、本当は凄まじく、しんどい行為であることを認識した方がいい。特に、人の自殺などは、その人の心の持つ暗闇、それを生み出した社会の問題と向き合うことになる。
いくら報道でプロとアマチュアの垣根がなくなったとはいえ、自らそうしたおぞましい世界に気楽な気持ちで飛び込み、ジャーナリストや評論家を気取ることはなかろう。そして他人の自殺情報を楽しむのは、その楽しむ人の心がすでに汚れているか、もしくはこれから汚れる事を示すだろう。こういう内面の崩壊は本人が自覚するのが多くの場合に遅れてしまう。気をつけた方がいい。
「暗闇をのぞくものは、その暗闇から自分がのぞかれていることを知るべきだ」(ニーチェ)。これは記者として、筆者が常に念頭に置く言葉だ。私たちの一般生活でも当てはまる格言であろう。
自殺の情報面での扱い方
日本ではここ数年、一時期よりは減ったものの年間2万人の人が自殺する。とても深刻な話だ。これを「政治のせい」と主張する意見が散見される。また自殺の理由と経済的困窮の広がりを、結びつける意見も多い。
しかしそれは一因であっても主因ではない。自殺は多くの場合に心の病と連動している。また、報道を注意深く読めば分かるが、現場で「酒瓶が転がっている」という描写がよくある。酩酊状態にあって、発作的に自殺をしたという例が多い。飲酒や麻薬などの酩酊、興奮など、外部の要因によってもたらされることがある。突発的な事故の側面もあるのだ。
(余談ながら、民主党の衆議院議員だったN氏の自殺の記事でも、自殺現場にウィスキーの瓶が転がっていたという報道があった。この人は「メール事件」で世の批判を集めてから不眠に悩まされたそうだ。同僚の民主党議員が寝酒を勧めたというが、その議員から直接、そのアドバイスを悔いていると聞いたことがある。)
多くの場合、死の意思に凝り固まる人は少ない。単一の理由のみで自殺することは少ないとされる。自殺は、精神病の治療、ならびに本人と周囲の人の気づきと配慮で思いとどまらせることができる。「予防」が可能であるそうだ。(以下、素人の私が間違えたことを言う危険があるので、取材したことのある筑波大学高橋祥友教授の「自殺のサインを読み取る(改訂版)」など、専門医の著書を参考にしていただきたい。)
これまで示した通り、自殺をめぐる情報に私たちは影響を受けてしまう。そして、自殺の増加などの影響が出てしまう面がある。17世紀のベストセラーで主人公が自殺するゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」の影響で、西欧諸国で自殺が激増したときから、この問題は観察される。
そのためにWHO(世界保険機関)がメディア関係者のためのガイドラインを提供している。
「自殺予防メディア関係者のための手引き」(2022年改訂版日本語版・厚生労働省)
またリリースを公表した。「子供や若者に人気の著名人の自殺報道は、子供や若者の自殺リスクを高めることになりかねない」と明記している。そして以下の指針を示している。
自殺報道でやるべきことは、「どこに支援を求めるかについて正しい情報を提供する」ことだ。やってはいけないことは「報道を目立つように配置しないこと、過度に繰り返さないこと」「手段を報道しないこと」「(情報の)リンクをしないこと」だ。
日本のメディアはセンセーショナル報道が好きだ。もし中にいる記者に良心があるなら、そして知らないなら、このガイドラインを参考にしてほしい。他の報道では人権侵害を繰り返す日本のメディアは、大手の新聞紙・地方紙、そしてテレビは、このガイドラインを尊重するようになっている。逆にそれが真相究明を妨げている(2020年の三浦春馬さんの事件など)との批判もあるが、総じて好ましいことだ。逆に他の種類の報道でも、広げてほしい。
また今は「誰でもメディア」の時代だ。自殺をめぐりネットやSNSがメディアや世論を引っ張る可能性がある。この戒めは、私たち一人ひとりが心に留めるべきであろう。
年間2万人もの日本人が、自殺で亡くなっている。これは人口当たりの割合では世界トップクラスだ。もちろんこれで自殺をめぐる問題すべてが解決するわけではない。しかし、私たちが慎重に情報を扱えば、その人々の一部でも救えたかもしれない。そしてこれから救えるかもしれない。
そして心の病は誰にでも生じることだ。死をめぐる情報をいい加減に扱わないことは、私たち自らの命を守ることにもつながる。自分と他人の命を大切にすることは、私たちの充実した人生の前提になる。
石井孝明
経済記者 with ENERGY運営
ツイッター:@ishiitakaaki
メール:ishii.takaaki1@gmail.com
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