関電黒部ダム建設、先人の苦闘と現在の努力(上)

石井孝明
ジャーナリスト

2018年10月、関西電力の富山県黒部川水系の施設、そして黒部第四発電所(通称黒四・クロヨン)と黒部ダムを見る機会を得た。峻険な山の中に電気を作るために、鉄道、ダム、発電所という巨大な設備があった。それを作った先人たち、そして今もなお、その維持のために努力を重ねる同社の人々に敬意と感銘を抱いた。

(写真1)黒部ダム
(写真1)黒部ダム

「たかが電気」…侮辱の前に電力の事実を知ろう

東京電力福島第1原発事故の後で、原子力発電とそれを運営する電力会社を批判する声が広がった。音楽家の坂本龍一氏は2012年7月の反原発集会で「たかが電気のためになぜ命を危険に晒されなければいけないのでしょうか?」と、電力会社を批判した。

私はこの言葉に、違和感を感じた。確かに電力会社や原子力の運営には批判される面があったかもしれない。しかし電気はスイッチを押せば出てくるものではない。それを発電し、送配電するためのインフラ、さらにそれを建設、維持する人々の努力が背景にある。そうした営みに敬意を持たず、「たかが電気」と侮蔑するのは、かかわる人々に大変失礼なことだ。

黒部の山中の巨大な設備と努力は、電力供給の背景にある大変な努力を私たちに教えてくれる。「たかが電気」と叫ぶ人たちは、ぜひその事実を知ってほしい。

そして技術の進歩を感じた。黒部水系は開発に100年をかけた。現在12カ所の発電所、発電出力の合計で90万1000キロワット(kW)の電力を作り出せる。黒四と黒部ダムの建設では7年の時間と延べ1000万人の労働、さらに171人の殉職者があった。一方で原子力発電では、原子炉一つ分で最新型では140万kWの発電能力を持つものが建設されている。原子力発電所で死者が出た事故例はチェルノブイリ事故など限られている。福島原発事故でも、放射線障害による死亡はない。

1970年代に各電力会社がこぞって原発建設に動いた。水力発電は、黒部川渓谷のように、自然を大規模に変えなければならない。また無限に行えるわけではない。黒部川では治水も含めて、いくつもダムがあり、数十年も流れをせき止めているため、石が下流まで流れず川やダムの底にたまってしまった。まだ水は流れているが、いずれ問題になる可能性があるという。(写真2)そして火力発電は、化石燃料の燃焼による大気汚染の問題が起こる。原子力発電はさまざまな解決にしなければならない問題があるが、それでも水力よりも、発電のメリットは大きいように思えた。

(写真2)岩だらけの黒部川の河床
(写真2)岩だらけの黒部川の河床

今に残る難工事の後

黒部川は、富山県の東部に位置する。水量が豊富で、高低差があることから、発電に適した場所として注目されてきた。黒部はアイヌ語グルベツ(魔の川)に由来するという説がある。ここは多雪地帯であり、洪水も多い治水の難しい川だった。それを100年かけて開発してきた。

まず大正時代に開かれた富山県の宇奈月温泉に一泊した。そして翌朝に関電の子会社が運営し、流域の発電所への輸送、人の移動、さらに観光にも使われる黒部渓谷鉄道に乗った。長さ20.1kmの間にトンネル41カ所、橋が21カ所あり、終点の欅平(けやきだいら)まで1時間15分の行程で、昭和初期に開通したものだ。黒部渓谷は川周辺が関電の所有、そして大半が中部山岳国立公園内にあるために、人の手がほとんど入っていない。山の緑、空の青さ、清流の青や緑の色の織りなす光景は大変美しかった。年約70万人がこの鉄道を利用する。(写真3)

(写真3)黒部渓谷鉄道と新山彦橋
(写真3)黒部渓谷鉄道と新山彦橋

関電の前身である日本電力が大正年間から、運送用の道とこの鉄道をつくり、黒部川の開発を行った。写真は、日電歩道と呼ばれた開発用の道の建設の様子で、昭和14年(1939年)の写真だ。このようなところに鉄道を通した苦労を思った。

(写真4)道を作る工事の様子(関電ホームページより)
(写真4)道を作る工事の様子(関電ホームページより)

欅平駅から竪坑エレベーターで200m上り、地下を通る関電の電動の小さな専用鉄道に乗り換えた。黒部第三発電所とその取水のための仙人谷ダム建設のため昭和14年に作られた全長6.5キロの輸送ルートだ。工事中約500mにわたり、地下の火山帯の影響で岩盤温度が最高で160度を超える高熱地帯があった。今でもこの列車内で、突然気温が40度近くに上がる場所があった。

工事と事故の状況は、吉村昭の小説『高熱隧道』に描かれている。1938年(昭和13年)8月に高熱でダイナマイトが発火、爆発して、8人が亡くなる事故があった。事故前は灼熱の中を穴掘りの人がホースで水をかぶりながら、坑道爆破の爆薬を詰めていったという。事故の後は特殊な容器を入れた遠隔操作に変わった。また同年12月には爆風を伴う巨大な雪崩が発生して宿泊施設が吹き飛ばされ、死者84名になる大災害があった。

当時は日中戦争の最中で軍需生産のために電気が必要で、こうした無理な工事を重ねた。黒部第三発電所は昭和15年(1940年)11月に完工した。

)に続く。下は黒部ダムと黒部第四発電所(通称クロヨン)の現状。

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