関電黒部ダム建設、先人の苦闘と現在の努力(下)

石井孝明
ジャーナリスト

(上)から続く。上は黒部川水系と工事の状況。

昭和の高度成長の代表的工事、クロヨン

黒部第四発電所についた。発電所は地下式で、黒部ダムから落差545mの水路を経て4台の水車に水が送られてくる。それらの総出力は最大33万5千kW、1号機の発電開始は1961年(昭和36年)で、3号機までの完成は1963年だった。(写真5)(写真6)

(写真5)4つの発電機の上部
(写真5)4つの発電機の上部
(写真6)直径3.3m、12トンの水車
(写真6)直径3.3m、12トンの水車

当時は毎年10%前後のGDPの成長の続く高度経済成長時代だった。しかし、経済の成長を電力不足が妨げかねなかった。関電は当時の社長太田垣士郎氏の主導で、黒四とダムの工事は、総額513億円、当時の同社資本金の5倍である。64年当時で、関電の発電能力は520万キロワット(現在は3657万キロワット)だった。

黒部ダムの完成で、黒部川水系の他のダムの水量調整もしやすくなった。また日本経済を支えた。昭和30年ごろは工場や家庭の計画停電が関西ではあったが、この完成によって電力不足は解消に向かった。

黒四では発電所・変電所などの主要施設が地下150mにつくられている。ここが国立公園内にあること、そして豪雪地帯であるためで、地下都市のようだった。ただし昭和30年代の建物で古さを感じた。

そこから標高1325mの地点と発電所(標高869m)を接続するインクライン(傾斜面を上下する装置)に乗った。傾斜角度34度、斜距離815mを20分かけて上下する。設備をダムや発電所に輸送するために作られた。さらにそこから地下通路を10km通ってダムに到着した。

(写真7)インクラインを下から見た光景
(写真7)インクラインを下から見た光景

黒四ダムは谷をふさぐように立てられ、高さは186m、堤の延長は492mと巨大だ。今でも日本一の大きさだ。美しいアーチ型を描く白い堰堤は、黒部湖のエメラルドグリーンと見事なコントラストを見せていた。ダムと発電所は10キロ離れており、そのために落差を545mと大きくできた。

黒部ダムの総貯水量は約2億立方m。石油輸送に使われる大型タンカー(20万トン以上の油を積めるもの)考えると、その1000隻分になる。しかし発電にめいっぱい使うと30日程度でなくなってしまうそうだ。

「黒部の太陽」の舞台、そして犠牲を思う

帰りは、長野県の大町へ抜ける6.1kmの地下トンネルを通った。日本で唯一残る上に電車のようなパンタグラフを付け、その電気で動くトロリーバスだ。しかし2018年には電気バスに変わった。このトンネル工事で「破砕帯」と呼ばれる出水を伴う特別の岩盤にぶつかった。これは石原裕次郎、三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』(1968年)のテーマになった工事だ。その難工事の場所を、バスはたやすく通り抜けていく。長野側のトンネル、富山側の鉄道とトンネルによって、ダム工事現場への資材搬入は可能になった。

黒部ダム関係の工事で亡くなった方は171人になる。ダムには巨大な慰霊像が立ち、慰霊が続いていた。「黒部は大きな水力エネルギーを生み出しており、関西の電力の安定供給に重要な場所です。私たちは先人達の努力を胸に、ここを守っていきます」と関電の案内の方が語った。

(写真8)黒部開発の殉職者慰霊碑「尊きみはしらに捧ぐ」と書かれている
(写真8)黒部開発の殉職者慰霊碑「尊きみはしらに捧ぐ」と書かれている

険しい峡谷の巨大な設備を見て、「ここから多くの電気を送ることができる」と考えた関西電力の人々の構想力、「電源開発を成功させる」と峡谷に道を通す努力を続けた先人たち、そのダムと地下設備の巨大な構造物をつくった人間の力と日本の建設会社の土木技術に、ただただ敬意と感銘をいだいた。

日本ではスイッチを入れれば電気は安い対価を出して自由に使える。しかしその背景には、多くの人のインフラ維持の努力があることは忘れがちだ。この記事をきっかけに、電力やエネルギーの裏に思いを寄せていただけると幸いだ。

注・私はエネルギーの研究者らと、関電の招待で見ることができた。私の辿ったルートは、関西電力に応募すれば、抽選の上で一般の人も見学が可能で、春夏に毎週行われている。5年前だが今もほぼ同じ内容だ。数は1回20人前後と少ない。地元が観光ルートとして整備し、見学数を増やす要望を出したが、新型コロナウイルスの蔓延によって、それは現時点で行われていない。

(写真4は関電、8はWikipedia、他は筆者撮影)

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